一般社団法人「もう一つの写真記録」設立趣意書

 全日本学生写真連盟が、後援の新聞社や写真機材メーカーから距離を取り、主体的自主的な組織運営を始めたのは1965年でした。その年の会報「Young Eyes 52」では、年間スケジュールとして数多く設定された写真展のために共同制作が執行部から提起され、それをこなすために写真を撮るという弊害が問題視されています。
 前年の1964年には、「戦後」に一区切りをつけた東京オリンピックが開催され、東海道新幹線、東京モノレールが開業しています。一方では、米国がベトナム戦争に本格的な介入を始め、反戦の機運が高まっていました。そして、翌65年には、原水爆禁止国民会議結成、米軍機北爆開始、ベ平連主催の初デモ、阿賀野川流域で有機水銀中毒患者発生、日韓基本条約調印、中国で文化大革命始まるーなどの出来事が起こり、日本と日本をめぐる情勢が大きく動き始めていることが分かります。
 学生の自主組織「全日=ZENNICHI」は、こうした社会情勢を背景に活動を始めました。

―全日本学生写真連盟が自分自身をのりこえるための、顕著な運動を起こしたのは、この時点、つまり1965年の、日本の、そして世界の、現実のさなかである(『状況1965』)―

 現実(可視的なものとは限らない)と向き合う中で写真を撮り、表現しようとすることで、18歳から20代前半の男女学生が、写真という行為を通して自己を、世界を認識し、表現に至ろうとしました。
 全国コンテストに替るキャンペーン方式で全国から集めた人と写真を基に『状況1965』『状況1966』が刊行され、経済生産性のみを追求した結果全国土を汚染した公害にカメラで立ち向かい、街頭販売した公害キャンペーン『この地上にわれわれの国はない』(1970年刊)や集団撮影行動を組織して広島の実相に肉薄した『(片仮名の)ヒロシマ (漢字の)広島 (発音記号の)hírou-ʃímə』(1972年刊)を世に出しました。また、1967年10月8日の佐藤首相訪ベトナム阻止羽田闘争から翌年1月19日の東大安田講堂バリケード封鎖解除までの闘争を記録した『10・21とはなにか』(1969年刊)、1969年11月の佐藤首相訪米阻止闘争の記録『‘69 11/13-17』(1970年刊)、三里塚空港反対闘争を記録した『三里塚1』『三里塚2』(ともに1978年刊)などにも集団で取り組んできました。
 このほかに、サークルで取り組んだ『足尾』(実践女子大)、最近になってやっと刊行された『郡上』(名古屋女子大)などがあります。
 これらは何とか本の形になりましたが、古いものはかなり痛みが出ており、残っていても希少本なので、見たいと思っても手にすることが難しくなっています。
 しかも、これらの写真群は、事情を知る私たちの記憶の中にかろうじて残っているだけで、最近の写真関係の書物を見てもほとんどその存在を知ることはできません。この2年間の準備期間中に私たちが手にした写真集といい、プリントといい、ネガといい、修復を必要とするものばかりです。今なにも手を打たなければ、これらの世に埋もれた写真群は、確実に「何もなかったこと」になってしまいます。
 この中には、19次にわたり撮影行動が組まれ、開拓史の中で上げ続けられた無辜の民たちの怨嗟の声を身に刻みつつ、シャッターを切ってきた『北海道101』があり、広島の原爆ドームから道一つ隔てた河川敷に存在した原爆スラムの消去に至る姿を捉えたものの、中断したままの『基町』があります。また、九州の491が現地で展示した『筑豊・旧大之浦炭坑』のパネル、撮影資料、ネガなどがそっくり残されてあり、1972年に始まった『長崎』の第1次撮影の大半のネガも発見されました。そこには、参加した一人ひとりの「個」が向き合い、写真に留めた営為が確かにあり、表現があります。そして、私たちの記憶の中にだけ残されている数多くのサークルや個人の写真を探し出したいと思っています。
 私たちは今、これらの写真群を閲覧可能な状態に整理し、保存するために、一般社団法人を設立し、著作権の処理から写真や資料の公開、展示、保存まで責任をもって運営するデータベース「アーカイヴス」を構築します。
 参加した者には多くの影響を与えながらも、世の中の人の目に触れることのほとんどなかった「日本写真史のもう一つ流れ」に姿を与え、その意味を世に問うセンターを創るのです。

2017/05/10